「加代は、ふしぎでたまらない。あんなに、つもってはきえ、つもってはきえしているのに、どうして、いつのまに、ふんでもとけないあつい雪の道ができるんだろう。土にとりついて、とけないで、上からおちてくるなかまをささえた、そのさいしょのひとつぶの雪を、加代は見たい。」『加代の四季』より
この文章を読んだのはいつ、どの教科書でだったかは忘れてしまった。しかし、雪国に住む者として、また毎年初雪に胸を躍らせていた少年として、この文章は深く心に残った。
私は
同じような疑問を抱きながらも、雪が積もり始める現象を同じ視点では見ていなかった。積雪を擬人化して表現したこの文章には、今でもなんとなく感動を覚える。
昨シーズンの初滑りは年始の立山だった |
最近になって、
山であれば、登られていれば少なくとも人間に登ることが可能であることがわかる。フリークライミングであればグレードである程度客観的な難易度を測ることができる。さらに登っている人のことを知れば、さらに情報が得られ、それが身近な人で自分と同じくらいのレベルであれば、「奴が登っているなら自分も...」などと考えてしまう。それがボルトルートであれば、支点によって直接的に体重や衝撃を支えてもらうこともある。
何が言いたかったかというと、やはり「初」 というのは別物だということである。
その後、さらに良いスタイルで登られたとしても、それが可能であることを知った状態でそれをしたかどうか、あるいは事前に情報を得ているかどうか、というのは体験の質という意味で全く異なるということである。こんなことは色んな人が書いているだろうし、これ自体、何かで読んだり聞いたりしたことの受け売りに過ぎないのだろうが...。
クライマーとして未熟な私は、クライミングで「初」という経験はない。それに近い体験はしているのかも知れないが、誰も気にしないようなラインで、技術的難易度も低いものだ。故にどこかに発表する必要もないのだが、それでも気持ちの昂りというか、未知故の不安やそれを越えたときの興奮というのは、やはり得難い経験であったと思う。
山スキーにおいては、少しだがある。つまり人の記録を頼りにせず、自分で地形図や写真、時には登攀記録等を読み解いて、おそらく誰もやったことがないであろう滑降ラインを引くことである。ただ、今私にこれができているのは、卓越した発想力や技術があるからというより、日本にこのような行為に意義を見出す人が少ないからであろうと思う。
初なんちゃらは充実感がすごい |
登山とスキーというのは分離して久しく、クライマーでスキーができる人というのは、本当に少ない。それに、日本は雪質が良く、メローで変化に富んだ斜面が豊富で、滑れるかどうかわからないような妖しい場所を求めるより、このような場所に楽しみを求める方が自然ともいえる。とはいえ、数が少ないからといって、その行為に価値が無いとは思っていない。少なくとも自分にとっては、生き甲斐ともいえる。それは相対的なものではなく、どちらかというと絶対的なものである。
運よく人がやったことがない滑降に成功したとき、私は基本的に記録を発表することにしている。それはこれまで登山全般において、他人の記録を参考にして計画を練ったり、記録を読むこと自体を楽しんできたからであるし、書くことが癖になっているからでもある。が、書くことで当然ながら失われるものもある。他人の、個人的な体験としての「初滑降
」
である。
そこが滑られていることを知らずに同じラインを滑った場合、それは初と同等の体験である。歴史的な事実としてそうではないとしても、本人には同じだけ強烈なインパクトを与えるだろう。できるだけ、その余地を残しておきたい気がする。スキーであるならなおさら、クライミングのように残置物が残ることは少ないから、情報があるかどうかの意味は大きい。そして、そのためには発表しないというのも、ある意味真っ当で正しい選択肢のような気がする。
ボルトを探す日々から |
しかし、それよりも「初」ではないものを「初」
降り積もった雪を踏みしめる時、加代は「最初のひとつのぶの雪」のことを想った。大袈裟に言えば、「初」ものの記録というのはこれに応えるものではないかと思う。これはただその人が優れていたからできた行為ではない。時代、時期的なものも関連している。何らかの巡りあわせにより、その人にしかできなかった行為である。後から同じような体験をした人が、そのことを知るための媒体がどこにあっても良いのではないか、というのが私が記録を寄稿する理由かもしれない。
と、まとめてみてから、新雪にたとえられるほどきれいなものだろうか、と疑問に思う。こんなときは人生の師・クラピカさんの言葉に耳を傾けてみようと思う。「コレクターは常に2つのモノを欲している。一つはより珍しく貴重なアイテム。もう一つは自分の収集成果を自慢できる理解者」。コレクターかどうかはさておき、私はとても珍しく貴重な体験を求めている。それと同時にそれを共有したり自慢したりできる他者を求めている。その体験に同じように価値を見出してくれる人を必要としているのだ。つまり、欲望の塊である。
一昨シーズンの初滑りは11月の立山だった |
と、まとめてみてから、新雪にたとえられるほどきれいなものだろうか、と疑問に思う。
その行為の喜びを知った以上、たとえ共有する相手がいなくてもそれをやるだろうが、そもそも情報がなければ一生のうちにこのような行為にたどり着くことはなかっただろう。それはそれで良いような気もするし、少し残念な気もする。情報が増えて同じ嗜好をもった人が増えれば、競争率は高くなり数少ない残された未知のなんちゃらはすぐになくなるかも知れない。自分だけがこっそり楽しんでいてそれに満足しているというのが、最も身勝手で自然なのかもしれない。
追記
堂津岳の稜線から乙妻山を見る |
次号ロクスノで山岳滑降の記事を寄稿させていただく予定です。その原稿をまとめている時に思ったことを、つらつらと書き連ねてみた駄文でした。最後になりましたが、きたる雪の季節が皆様にとって安全で実り多いものになりますように...。