「不帰とは、後立山主稜線上の唐松岳と天狗ノ頭との間に位置し、一峰・二峰・三峰の各ピークと、その北のキレットまでを含めた一帯の総称である」と、登山大系にはある。一方、山を滑る者として「カエラズ」と言うとき、私が真っ先に思い浮かべるのは、滑り手たちの間で通称キャットフェイスの愛称で親しまれ、斜度は平均でも50°近くありそうな雪と岩の壁を備える不帰二峰東壁だ。由来はわからないが、正面から見た時に左に北峰、右に南峰と2つの小ピークが猫の耳、その間にあるフェイスが、猫の顔面を想起させるからだと思われる。
その山容は「今日はもしかしたらお家に帰れないかも」と思わせるほど厳しく、同時にアメリカンショートヘアのように端正で気品に溢れている。つまり、魅力的なのである。私がその存在を知ったのは、会社を辞めてバムになった4年前の2014年冬だったと思う。右も左もわからなかったバム初年度、八方尾根から対岸のカエラズを見た時、こんなとこを滑る人がいることがにわかには信じられなかったし、できればそのまま目を背けて余生を過ごしたかった。
だが畏れと同時に、他の人に滑れて自分に滑れないはずがないという反発が生じたのを、リトルトマホークは見逃さなかった。急斜面でスキーヤーにできることは、一部の例外を除きそこまで変わらないはずだし、冬の間ほとんど毎日スキーブーツと板を履いて過ごした幼少期を思えば、私よりその時間が長い人の方が少ないだろうと思ったからだ。中学生でアルペン競技をやめ、その後山スキーを始めるまで全くというほど滑らなかったが、幼き頃から放課後はナイターでなまら滑り、土日は大会で道内のスキー場をなまら転々とした。端的に言うと、滑り下りる技術は身体に染み着いており、それにはある程度の自負があった。
とはいえ、私のアルペンスキーヤー人生は決して明るくなかった。種目によって成績がひどくアンバランスだったし、比較的得意だったスラロームでさえパフォーマンスは不安定で、カタハン(片足反則通過)くらって登り返して遅くなったり、途中棄権したりすることも多かった。ウィンタースポーツ全般に言えそうだが、スキーは道具にかかる費用が半端でなく、家庭にかかる経済的な負担も馬鹿にならなかった。最終的に、自分の将来性を冷静に見極めた結果、自ら競技を離れる決断をした。
今思い返してもこの決断に悔いはない。しかし、この時の挫折から、自分の中に「自分は決して一流にはなれない」という「負け犬の思考」が棲みつき、「常に最悪の場合を想定」して予めそれを避けようとする癖が身についたように思う。「勝ち目のない敵とは戦うな」と頭の中で声がするのは、脳に針を埋め込まれてしまったせいかも知れないし、単に元来怠け者だっただけかも知れない。私はその後の人生で、人よりも努力せずにできる部分だけを伸ばす方法により、学業なり余暇なり仕事なりをやり過ごしてきた。大きい声では言えないが、それは今でも大きくは変わっていない。
ただ、山に関しては少し違った。30手前になってから登山を始めた私だったが、山は恐かったから、登山中は常にある程度一生懸命だったし、強制的に努力せざるをえない環境に身を置くことで、省エネ生活で溜まっていた自分のエネルギーを引き出せる気がした。またそこで初めて、そんな自分を認めてやることができた。そんな昭和タイプの山ヤである私は、あくまで自分のレベルでだが「より困難」を自らに課すようになっており、山スキーにおけるキャットフェイスも、そういう文脈からバム2年目に挑戦すべき課題としてリストアップされていた。
まず、名前が挑発的だ。gooの国語辞典で単語を引くと、「ふ‐き【不帰】二度と帰ってこないこと。転じて、死ぬこと」。もうこれだけで超恐い。実話かどうか定かではないらしいが、こういう記述もある。「次は天狗の尾根。その隣の山は身のほど知らぬ者が天狗に近づこうとして帰れなくなったので、不帰の岳といいますぞい…」。 どこか腕試し、度胸試し、あるいは通過儀礼のように、挑戦心をくすぐる逸話である。 己の実力を過信あるいは見誤った者、神(仮にいるものとして)に愛されない者は死ぬ。これこそ、ザ・登山である。
既に沢山滑られている。最盛期には一日に二桁の数が滑ったという記録もある。また、私の知る限りキャットフェイスで誰かが死んだという話はない(2018年3月8日時点)。転倒した話や映像はあり(ここには私も陰ながら貢献している)、中には怪我をした人もいるが、死んだという話は聞かない。これはロクスノ#38の記事(2007年12月なので10年以上も前だが)にも書かれてるが、それは未だ変わっていないのではないかと思う。とはいえ、それが未来に向かっても変わらないとは言えない。起こりうることは起こる。「転倒する余地があるなら、 転倒する」「パウダーで転んで外れたスキー板が失くなる確率は、板とビンディングの値段に比例する」というのがマーフィーの法則だ。
オーケー、とりあえず死なないとしよう。そして、あみだくじ状に引かれたラインの中から比較的安全に滑れるラインを見出せるとしよう。技術的には、雪がある程度良ければ50°は十分可能だ。行けるに違いない。それが最初のバムシーズンやその後の登山経験、カエラズについて見聞きした情報を私なりに嚙み砕いて得た結論だった。 あとは、 積雪状況を見極める力、そして何よりメンタルだった。精神的な理由で行けない自分を許すことが出来ない私は、車中泊の夜長、何晩も寝返りをうちながら逡巡した後、2015年の1月末、一人で猫ちゃんを目指すことにした。
すみません、思いのほか長くなってしまったので、2回に分けて一ヵ月後にまた書きます。長文お付き合い頂きありがとうございました!
出典:
日本登山大系 #6
ROCK&SNOW #38
ハンター✖ハンター #10
北アルプスこの百年
2015年1月15日のキャットフェイス |
その山容は「今日はもしかしたらお家に帰れないかも」と思わせるほど厳しく、同時にアメリカンショートヘアのように端正で気品に溢れている。つまり、魅力的なのである。私がその存在を知ったのは、会社を辞めてバムになった4年前の2014年冬だったと思う。右も左もわからなかったバム初年度、八方尾根から対岸のカエラズを見た時、こんなとこを滑る人がいることがにわかには信じられなかったし、できればそのまま目を背けて余生を過ごしたかった。
だが畏れと同時に、他の人に滑れて自分に滑れないはずがないという反発が生じたのを、リトルトマホークは見逃さなかった。急斜面でスキーヤーにできることは、一部の例外を除きそこまで変わらないはずだし、冬の間ほとんど毎日スキーブーツと板を履いて過ごした幼少期を思えば、私よりその時間が長い人の方が少ないだろうと思ったからだ。中学生でアルペン競技をやめ、その後山スキーを始めるまで全くというほど滑らなかったが、幼き頃から放課後はナイターでなまら滑り、土日は大会で道内のスキー場をなまら転々とした。端的に言うと、滑り下りる技術は身体に染み着いており、それにはある程度の自負があった。
昔から板はやっぱりオーストリア |
今思い返してもこの決断に悔いはない。しかし、この時の挫折から、自分の中に「自分は決して一流にはなれない」という「負け犬の思考」が棲みつき、「常に最悪の場合を想定」して予めそれを避けようとする癖が身についたように思う。「勝ち目のない敵とは戦うな」と頭の中で声がするのは、脳に針を埋め込まれてしまったせいかも知れないし、単に元来怠け者だっただけかも知れない。私はその後の人生で、人よりも努力せずにできる部分だけを伸ばす方法により、学業なり余暇なり仕事なりをやり過ごしてきた。大きい声では言えないが、それは今でも大きくは変わっていない。
2016年2月11日の二峰(唐松沢より撮影) |
ただ、山に関しては少し違った。30手前になってから登山を始めた私だったが、山は恐かったから、登山中は常にある程度一生懸命だったし、強制的に努力せざるをえない環境に身を置くことで、省エネ生活で溜まっていた自分のエネルギーを引き出せる気がした。またそこで初めて、そんな自分を認めてやることができた。そんな昭和タイプの山ヤである私は、あくまで自分のレベルでだが「より困難」を自らに課すようになっており、山スキーにおけるキャットフェイスも、そういう文脈からバム2年目に挑戦すべき課題としてリストアップされていた。
まず、名前が挑発的だ。gooの国語辞典で単語を引くと、「ふ‐き【不帰】二度と帰ってこないこと。転じて、死ぬこと」。もうこれだけで超恐い。実話かどうか定かではないらしいが、こういう記述もある。「次は天狗の尾根。その隣の山は身のほど知らぬ者が天狗に近づこうとして帰れなくなったので、不帰の岳といいますぞい…」。 どこか腕試し、度胸試し、あるいは通過儀礼のように、挑戦心をくすぐる逸話である。 己の実力を過信あるいは見誤った者、神(仮にいるものとして)に愛されない者は死ぬ。これこそ、ザ・登山である。
2014年1月24日の不帰。左から唐松、不帰三峰、不帰二峰 |
既に沢山滑られている。最盛期には一日に二桁の数が滑ったという記録もある。また、私の知る限りキャットフェイスで誰かが死んだという話はない(2018年3月8日時点)。転倒した話や映像はあり(ここには私も陰ながら貢献している)、中には怪我をした人もいるが、死んだという話は聞かない。これはロクスノ#38の記事(2007年12月なので10年以上も前だが)にも書かれてるが、それは未だ変わっていないのではないかと思う。とはいえ、それが未来に向かっても変わらないとは言えない。起こりうることは起こる。「転倒する余地があるなら、 転倒する」「パウダーで転んで外れたスキー板が失くなる確率は、板とビンディングの値段に比例する」というのがマーフィーの法則だ。
オーケー、とりあえず死なないとしよう。そして、あみだくじ状に引かれたラインの中から比較的安全に滑れるラインを見出せるとしよう。技術的には、雪がある程度良ければ50°は十分可能だ。行けるに違いない。それが最初のバムシーズンやその後の登山経験、カエラズについて見聞きした情報を私なりに嚙み砕いて得た結論だった。 あとは、 積雪状況を見極める力、そして何よりメンタルだった。精神的な理由で行けない自分を許すことが出来ない私は、車中泊の夜長、何晩も寝返りをうちながら逡巡した後、2015年の1月末、一人で猫ちゃんを目指すことにした。
バム2シーズン目となった2015年 |
すみません、思いのほか長くなってしまったので、2回に分けて一ヵ月後にまた書きます。長文お付き合い頂きありがとうございました!
出典:
日本登山大系 #6
ROCK&SNOW #38
ハンター✖ハンター #10
北アルプスこの百年
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